戦後80年 2025年夏 雑感

今年も、8月6日、9日、そして15日がやってきます。8月という月は、否応なく戦争の記憶や平和への思いに心を向けさせられる時期です。甲子園では、かつて正午に試合を中断して黙とうを捧げていましたが、今年はどうなのでしょうか。酷暑の影響で、日中の試合そのものがなくなるとも聞きます。

「戦争を知らない子どもたち」のさらに次の次の世代が、いまや高校球児となる時代。実際に戦争を体験した方々の数も減り、その記憶や伝えられ方も、少しずつ変わってきているのを感じます。そんな中、ウクライナやガザのように、日々子どもたちや市民が犠牲になっている現実を目にすると、平和と民主主義の大切さを教え込まれてきた私たち世代としては、今の世の中の風向きに、どこか落ち着かない思いを抱いてしまいます。

戦争の本質は、昔も今もそう変わっていないのかもしれません。エラスムスが『痴愚神礼賛』で「無知・暴力・狂信」を人間の愚かさとして描いたように、現代でも、知性や対話よりも感情や偏見が先行する政治の流れが見え隠れしています。もし、戦争を支える人々の中から「無知・暴力・狂信」を少しでも減らすことができたなら、どれほど世界は違って見えるでしょうか。

カミュの『正義の人々』には、ロシア大公暗殺をためらう若き革命家の姿が描かれています。馬車の中に子どもたちを見つけた彼は、手にした爆弾を投げることができませんでした。「子どもたちが見えた。投げられなかった。」という有名な一言が、その場面のすべてを物語っています。                         いまの若いイスラエル兵も、同じような葛藤を胸に抱いているはずだと、願わずにはいられません。(今更、子供たちの命が戻るわけでもないけれど・・。)

昔、「コント55号」というコンビがいて、こんなギャグがありました。       「どーしてこうなるのっ!」と。

「無知・暴力・狂信」が、まだまだ私達を振り回しているのでしょう。                 このままいけば、日本も恐ろしい怪物を呼び込むことになってしまう?

ああ、暑い暑い! いや寒い寒い!か?